日々馬鹿日記2005 Ver.1.01b

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留年生活をまとめる

久しぶりに長い文になるなぁw
思えば7年前の春。仙台での浪人生活を終えて、大都会東京へやってきた。浪人生活での失敗を踏まえ、川崎の親戚宅の下で大学生活を正しく満喫しようと意気込んだが、周りの誘惑に見事に惑わされてしまった。それが全てのはじまりだった。学業よりも遊びすぎの生活。大学に行かず電車やネット。1年目の後期開始の段階で留年生活が約束されたようなものだった。翌年から八王子で一人暮らしを始めたものの、大してペースは良くならなかった。そんな生活が3年続いた。
八王子ではバイトはほとんどしていなかった(豊田あたりに何回か行ったが)ので、春と夏の長期休み中は山形に帰り、日雇い派遣に登録してバイト生活をしていた。実家からすぐ近くで働けるようにしてもらったのは良かったものの、そこでは知られざる日本の産業の一面を見た。働いているのは工場の職員ではなく外注会社の人だらけて、観光バスを貸し切り片道1時間近くかけてやってくる人も少なくない。後に禁止になった就労方式(今でも続いてるような気がしなくもない)であるが、衝撃的だった。ただ、田舎であるゆえ短期間(1〜2ヶ月)のバイト募集も少なく、それしか選びようがなかったのも事実だった。支払われる給与から一定額の手数料が強制的に天引きされる業務管理費の問題も表面化し、派遣業界に大きな波紋を投げかけた。
その一方で、事件は3年目が終わる頃に起こった。家族内で重大な問題が発生し、親戚や祖母を交えての緊急会議にまで発展した。1年間猶予を見て事態が快方に向かわない場合、父母別居になる事を告げられた。1年経過するも改善は見込めず、別居は現実のものとなった。これを機に姉は実家近辺での一人暮らし、母親は東京へ上京することとなった。
自分自身も東京(八王子から町田へ移動)で学業の傍らバイトをすることになったが、進級の足かせとなってしまった。あわせて同年秋に発生したリーマンショック。いくら就職に有利な大学とはいえこの影響は大きかった。年を追う毎に事態が改善するどころか悪化。この頃に、この一連の騒動は「浪人しても留年しても遊んでいたツケがまとめておそってきたのでは」と考えるようになった。余りにもタイミングが悪過ぎるのである。
卒論着手した昨年、卒業に向けて集中して挑めるようにバイトを終了(何故か町田から多摩市へ引っ越すことに)。今回で卒論できなければ留年せず退学という背水の陣で不足単位の習得、卒論作成になった。この頃から都下を車で移動するようになり(引越し先からバイト先まで徒歩で行ける距離でなかったため)、気づけば首都高もなんとか走れる程度になってきた。就職先は相変わらず見つからず、1次試験で落ちまくっていたまま年を開けた。卒論の方も忙しくなってきたので1月は卒論に没頭。無事提出したところで就活を再開し、仙台で就職先を見つける。そして卒業も決まった数日後に、今回の大震災を迎える。幸い就職先に被害はないようで*1業務上の支障は特にないものの、インフラの復旧が不明のため当分の間は東京の営業所に勤務する可能性もあったが、結局仙台の本社で勤務することになった。

この長い期間に感じたのは、技術の進歩である。携帯電話はスマートフォンが主流になり、ブログは定番化しツイッターという新たな媒体が生まれ、CPUはマルチコアが完全主流、ハードディスクはテラバイトクラスへ、サーバーなど高度用途に限られていた64bitOSが一般に普及を始める。これ以上進化しそうにないと思えたものも実は飛躍する力を持っていたことに気づかされた。エンジニアとしての称号を得た自分にとっては、今ある技術を成長させ続けなければならないと感じている。今日のように豊かな生活があるのは、先人の技術者による不断の努力があってこそ実現できている。エンジニアとして社会に出る以上、自分よりも若い世代の人がより便利に生活できるよう、自身の知識・技術を磨き続けなければならないと感じた。

*1:後日、甚大な被害はなかったが周辺に被害はあった